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ロシア正教会

ロシア正教会 (-せいきょうかい、ロシア語 Русская Православная церковь、英語 Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教の教会である。

正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではない。
教派名は「正教」「正教会」であり、「ロシア正教」「ロシア正教会」は一地方組織名である。したがって「正教を信仰する」「正教に改宗する」といった表現は適切であるが、「ロシア正教を信仰する」「ロシア正教に改宗する」といった表現は誤りである(一組織を信仰するのでもなければ、正教への改宗はロシア正教会だけに有効性が限定される訳でもないため)。

ロシア正教会の指導者はモスクワ総主教(モスクワおよび全ロシアの総主教)。現在の総主教はキリル1世である(2009年2月1日より)。

その管轄はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとした旧ソ連邦諸国や、海外のロシア正教会系の教区に及んでいる。なお、ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)は事実上の自治教会、日本ハリストス正教会は自治教会となっている。

無神論を標榜する旧ソ連邦から、一貫して弾圧を受け続け甚大な被害を受けたロシア正教会であるが、旧ソ連邦崩壊後には復活を遂げ、教勢を増している。

なお、本項では同じく正教会に属する日本ハリストス正教会の訳語を断りなく用いる場合がある。
「ロシア」という地域名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるようになったのは16世紀になってからのことである。「ロシア」がどこから出発したかが曖昧な以上、「ロシア正教会の歴史」と言った場合もどこに記述の出発点を置くべきかは必然的に議論が分かれるものとなる。

11世紀までは、ルーシの中心地域が現在のウクライナの首都であるキエフ周辺だったことを反映し、正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代ウクライナとなっている南西ルーシ地域は14世紀前後に隣国のリトアニア大公国とポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカチェリーナ2世による併合に至るまでウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されてもいた。「ルーシ」の正教会の歴史と、北東ルーシのモスクワを中心とする現在のロシア正教会の歴史とは分けて考えるべきだとする見方も説得力はある。

だが当初からキエフ府主教座は北東ルーシをも管轄していた。キエフ・ルーシ時代の正教会とロシア正教会の歴史との間にどこまで連続性を認めるかは難しい議論となり決着はつかない。これは特にウクライナにおいて、政治的立場と相俟って熱い論争となる歴史認識問題である。国境や民族の居住区域、地域の中心地が一定することのない、大陸のどこででもみられる論争である。

本項では、ヒエラルキーの連続性を有し時代的境界線を設定し難い教会史の性質もあり、キエフ・ルーシ時代の正教会とロシア正教会の連続性を一定程度認め、10世紀後半頃のルーシから記述を進める。ロシア正教会の出発点をより後代に看做す立場からも、この時代の正教会の歴史はロシア正教会の歴史を知る上では必須の「ロシア正教会前史」であるとは最低限言えるからである。

伝承によれば、ルーシの正教会伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが、本格的な正教会伝道の試みが歴史的に確認できるのはコンスタンディヌーポリ総主教フォティオス(在位:858-861? 878-886)によるものである。また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガがキリスト教(正教会)[2]の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった。

ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり

まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い[3]。府主教座は当時ルーシの中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた。

発足当初から長期にわたってキエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の監督下にあり、コンスタンディヌーポリ総主教がキエフ府主教を任命した。当初は府主教も東ローマ帝国(ビザンティン帝国)から派遣されたギリシャ人だった。なお初期の府主教の称号は単に「キエフ府主教」であり、「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は後代のものである(後述)[6]。

キエフには後にキエフ・ペチェルスク・ラーヴラに成長する洞窟修道院が、アトス山の修道院から出身地ルーシに戻ったアントニーによって1051年にキエフに創始された

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2009年04月22日 08:54に投稿されたエントリーのページです。

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